パーセル 《妖精の女王》
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シェークスピアから抜粋して再構成したオペラ。(正確にはマスクとかセミ=オペラと分類されるらしい)
ただし(パーセル作品の記事にはいつも書くことだけど)オベロンもパックも歌いません。ほとんどの部分でお芝居(ストレートプレイ)をやっていて、たまに本筋とは関係ない妖精とかコーラスが歌います。妖精の歌にしても、メンデルスゾーンが曲をつけたような、シェークスピアのテキストをそのまま使った箇所はないそうです。
ですので、用意したテンプレは5幕もあるけど極めて短く、たぶんこれ音楽が付いている箇所だけだと思います。英語ですのでハードルは低いです。翻訳ボランティアさんをお待ちしています。
ここまでだと今日の記事はちょっと短めになってしまうので、野田演出によるモーツァルト 《フィガロの結婚》 川崎公演の感想を少々。
結論から言うと「モーツァルトだと思わなければ楽しめるんじゃない」という感じ。ソーシャルメディア上では絶賛の嵐でしたが、行けなかったからといって悔しく思う必要はないです。秋の公演はテレビ収録するって噂だし。
私は野田演劇はテレビでチラっと見たことがあるだけだけど、野田ワールドに馴染んでる人なら納得の出来なのではないでしょうか。
モーツァルトに馴染んでる人にはちょっとキツい。まず第1幕のっけから日本語訳詞歌唱とレチ部分を日本語台詞の芝居に変更して進行する。日本語の歌はなまじ意味がわかるだけに、替え歌うたってるみたいに聴こえる。予想はしてたけど、入り込めない時間がずっと続く。
ケルビーノが登場してようやくホッとする。西洋人歌手は長崎に来た異人という設定でイタリア語歌唱になるのです。ただしケルビーノはCTではなく日本人メゾに歌わせたほうがよかったと思う。あの「重さ」は《フィガロ》には致命的です。ていうかケルビーノを野田ワールド(飛んだり跳ねたり?)に引き込まなかったことが意外。
ワークショップで作ったんだそうです。その他大勢の歌手や役者やダンサーさんが繰り出すあれやこれやのアイディアは稽古の現場でみんなでひねり出したものを使っているんでしょう。いろいろ詰め込んで猥雑な感じを出すというのも野田ワールドなんでしょうね。ほとんどは余計です。歌の邪魔です。そういう目障りなものがなかった第3幕の伯爵夫人のアリアが一番良かった。歌もオケも。
第4幕のマルチェリーナとバジリオのアリアは通常カットして構わないと思ってます。これらの役に人を得た時以外は。今回がその例外でマルチェリーナのアリアは聴きたかったな。
日本人が西洋人を演じる違和感を免れたリアリティのある舞台という点では可能性を感じました。日本人がやるオペラの気持ち悪さ(似合わない容姿と取ってつけたような稚拙な演技…特に合唱などその他大勢)はここには全くありません。他のオペラも全部長崎に持ってきてしまえってわけにもいかないでしょうが、このアイディアのヨコ展開に期待です。
ただし(レチの日本語は目をつぶるとしても)歌だけは原語がいい。六重唱とかどうすんだろうと思っていたら、やっぱりぐちゃぐちゃでした。そんな無茶はやめて、スザ女、フィガ郎(日本人)ではあるが(なぜか)イタリア語がペラペラで二人だけで歌う重唱でも全部イタリア語って設定でよかったんでは。(そういえば第4幕のフィガロとスザンナのアリアはイタリア語で必ずしも日本語で押し通すわけではなかった……このへんは井上の意見に野田が妥協した?)
野田秀樹は言う、「"許す"って言葉がたくさん出るけど、人間はそんなに簡単に許せないだろう」と。ラストの伯爵夫人の行動がその答えなんでしょう。
私は《フィガロ》の頻出単語は「復讐」だと思う。みんな復讐することばかり考えてる。復讐を企んでいる時がいちばん生き生きとしている。伯爵もバルトロもマルチェリーナも、フィガロもスザンナも。ただひとり、伯爵夫人だけが許す。許された翌日から伯爵は懲りずに復讐を考え始めるにきまってる。和解したはずの他の連中もどうでもいいきっかけからまた復讐を練り始めるに違いない。そして伯爵夫人は聖母様のように再びすべてを許すだろう。そうやって彼らは毎日、伯爵夫人の掌の上で踊っているのだ。人間の毎日ってそんなものではないかと。
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