朝比奈隆訳《イル・トロヴァトーレ》対訳完成と「アンヴィル・コーラス」YouTube動画公開
朝比奈隆による「歌える日本語訳」第四弾、ジュゼッペ・ヴェルディ《イル・トロヴァトーレ》を公開します。対訳はこちら → トロヴァトーレ
「世界中のオペラが全部滅びてしまったとしてもモーツァルトとヴェルディさえ残っていればオペラの伝統というものは失われはしない」と語るほど、朝比奈はヴェルディにのめり込んでいたようです。
ただ《トロヴァトーレ》を取り上げたのは比較的遅く、1972年の関西歌劇団第33回公演でした。そのわけを当時のプログラムに記しています。
「トロバトーレ」の極限にまでオペラ的に純化された音楽が私をひき付けてからもう数十年私はその総譜を指揮台に載せなかった。劇的感情がこれほどまでに音楽に溶解、凝縮されていることが私を恐れさせ控え目にさせたからだ。
しかしようやく解き放たれた思いで「トロバトーレ」の練習にとりかかって今、私の心は青年のような新鮮なよろこびに満ちている。あの多数の作品、しかも全生涯に亘る広汎な系列の中でこれ程ヴェルディ的に澄み切った音楽を私は知らない。管弦楽も歌唱もアンサンブルそして何よりもあの生彩にみちた合唱も、すべてが輝きといのちに満ち溢れている。
朝比奈の「歌える日本語訳」を使って「アンヴィル・コーラス」の動画対訳を制作しました。ロバート・ショウ合唱団のコーラスです。最後のフレーズの歌詞は少し変えているようです。この音源は2017年末の時点で公開から50年以上が経過し、2017年まで著作隣接権保護期間を50年と定めていた日本では、パブリックドメインとなっています。
先月公開した「プロヴァンスの海と陸」とは違い、イタリア語の意味に沿った素直な和訳になっています。さすがに「切れ痔痛いの、異常にアレ~は!」とは訳さなかったか……。
第4幕の「ミゼレーレ」で刻まれる「ダダダン」のリズムは朝比奈に大きな啓示を与えたそうです。
その頃読んだ或る評論にヴェルディの管弦楽法の単純さを酷評して「大きなピアノにすぎない」とあるのを見て、ひそかに我が意を得たような気持ちをさえ持った。近代的なレアリズムの芸術観や、哲学的な高邁錯雑な精神のみが私達青年を共鳴させた。
当時管弦楽法を勉強中だった私は、「トロバトーレ」の第四幕のレオノーラとマンリーコの男性合唱付二重唱の場で、全管弦楽が斉奏で伴奏のリズムを奏する部分をその最も拙い実例として指摘、ワグナーやプッチーニの豊潤な管弦楽法と比較して冷笑した。
しかしそれから十年を経て自ら歌劇音楽の演奏に携わるようになって一日たまたま「トロバトーレ」の二重唱を指揮した。そしてかつて軽蔑した斉奏の伴奏部が響き始めた時、私は愕然とした。
総譜の中で幼稚単純に見えたそのリズムは、人の心を根底からゆり動かすような迫力を持って、恋人の死に直面するレオノーラの恐怖と絶望を私に打ちつけてきた。
そして私に新しい世界が啓示された。そこには「非現実的表現」の美があった。即ち「歌劇」であって「近代演劇」でない一つの様式であった。ベートーヴェンやブラームスの交響曲とは異る一つの音楽があった。
対位法や変奏展開の技巧ではなくて、直接人間の感情に訴える声であった。
ヴェルディは好んで三拍子のワルツに似たリズムを伴奏に用いた。それが悲嘆や哀傷を歌う場面でも、優美な旋律がこうした軽やかな伴奏で書かれた。
しかしそうした見せかけの不合理を衝こうとした私達の非難は、ヴェルディの天才の前には余りにも小さかった。それまで書架に突込んだままほってあった「トロバトーレ」や「椿姫」の総譜と懸命に取り組んだ私は、初めてオペラというものの本当の姿を見たような気がした。
「ミゼレーレと二重唱」は先日公開したカラスとディ・ステファノの動画対訳ではこのあたりから。
「歌える日本語訳」の文字起こしと校定は、「朝比奈隆のオペラの時代」の著者、押尾愛子さまが行っています。上の朝比奈のテキストはこの著作から引用しました。
朝比奈の「歌える日本語訳」は2071年末まで著作権法の保護を受けています。当プロジェクトは遺族の許可をいただいて掲載しています。著作権法第32条に定める引用の範囲内であれば問題ありませんが、複製・転載・転用は固くお断りいたします。
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